今日は人の成長ステージと精神的成熟度の関係について書いてみます。

今まで所属していた地域や場所や会社や団体に対して、ある日トップが入れ替わっていろんなことが変革を迫られるときがあります。サッカーや野球などのスポーツもそうです。指揮官が変わると今までのチームの状態がまったく変わります。そうすると今までそこで旧体制で満足していた人の中に不満がかならず出てきます。旧体制の方が居心地が良かった、それは自分の立場が安泰で楽でいられた、旧体制の立場でいたら自分は指導的立場で居心地が良かった、などなど。

既存の自分立場や自分の居場所がなくなったとき、自分がいまいる場所に対して違和感を感じたり、嫌だなーと感じたりしたとき、そういうとき自分の立ち位置「ステージ」が変わるときを迎えている、という言い方をするときがあります。

私にはここが合わない、それはたぶん私のステージが変ったのかもしれない、と。
確かにそういうときありますね。違和感を感じるときは無意識に発せられるサインだと言われます。

ステージが変った時の変化は、例えればこんな感じ。
・ワンマン社長の元にいてその指示を受けて仕事をするだけで褒められて認められていたものが、自分の意見や自分の考えやアイデアがどんどん否定されていくうちに、周囲と同調できない自分になっていった
・人の悪口を吹聴し、人の足をひっぱる人達と一緒にいて、今までストレス解消になっていたが、自分が成長してきて被害者意識が薄れていくうちに周りに同調できなくなり、どうしても違和感を感じ、居心地の悪さを感じていづらい

・今までは自分が目立たないかどうか?普通かどうか?正しいかどうか?周りにどう思われているか?嫌われていないかどうか?を中心にして行動や発言していたものが、自分がどうしたいのか?を中心にして物事を見るようになりやりたくないことをやることに我慢ができなくなった

などなどなど、、このような場合は明らかに成長ステージが変って来た、という表現が合っているように思います。

しかし!成長ステージが変わるとこれらの大きな変化の際に起こる今いる現在地に対して違和感を感じることは大事なサインだと言えると思いますが、それはちょっと違うかなと思われる場合もも多々みられます。最近はよく実は自分の心の中の恐怖や不安と向き合えないために、他人を否定したうえで自分を正当化するための単なる「都合のいい言い訳」に使われているのが多いなと感じますね。そうやって便宜上都合よく誤解されて使われているために、その人本人が本来のステージとは違う立ち位置に上がっているように勘違いされて、上から人を見下すようになってしまうのは本末転倒なのです。

では自分の都合のいい言い訳に使う場合と、自分の成長ステージに進んでいる場合の違いについて考察してみます。

明らかな違いは、相手が主体になっているか?自分が主体になっているか?の違い、これは大きいと感じています。
精神的に成熟している大人は相手ではなく、自分が行動することで事態を打開する、自分から相手に言う、自分が責任を持つ、これができる人です。対して、相手が主体になっている場合は、相手がこうしてくれない、相手に責任がある、だから自分はあの人に違和感がある、あの人や周りが悪い、あのひとが、あのひとが、、、、という場合は、それは違和感、ではなく、自分の未解決の問題が反応しているかもしれません。

最近、取り扱うセッションのテーマにもこれがよく出てきます。
問題を相手の中に見つけてそれを批判非難していても、じつはそれが自分の問題だった、というケースが多々あります。
もちろん、相手の問題もものすごくあります。しかし、人間関係の多くはお互いに反応し合って起こるものであって、どちらかの非をあげつらっていてもまったく解決には程遠いものです。あるクライアントはどんどん自分の周りから人が離れていく、いなくなってしまう、という恐怖と戦い続けて疲れ切ってしまいました。ところがフタを開けてみたら、じつは多くの問題の根源にあるものは「自分の中の恐怖」だったのです。そこに気づいてしまい本人も驚愕していました。気づいた以上は解決は早いのです。ところが、世の中の多くの人々は、人間関係で戦い続けて、「私はみんなと違う、みんなはそこにいればいい、私はみんなとは違うステージに行くから」という自分に都合のいい言い訳をしながら、次の職場でもまた同じような人間関係に翻弄されていくのです。それをずっと永遠に繰り返していくでしょう。

結局は、問題は自分に帰す、これしかありません。いえ自分を責めるのではありません。自分が責任をもってこれをどう解決するか?を自分から決めて動くということ、そしてその行動の結果責任をすべて自分で負うという覚悟があればいいのです。

自分が成長して新しいステージにいくときは、他人が主体ではなく自分が主体で責任をもつことが大事だということになります。責任については自分が悪いとじぶんを責めるという意味ではなく、自分が主体になって発言し、問題があれば当事者と直接話しをする、疑問があれば相手に直接問う、そのうえで、自分はどうしたいのか?を決めて行動していくこと。自分で決めて自分から行動すれば、人や周りの責任にすることはできませんから、責任を持つのがイヤで周りや人の責任にしておきたい人にとってはかなり高いハードルではないかな、と思います。

しかし、これができないとなると一生自分が主体の人生を生きることが難しくなってしまいます。だから今の日本人が回避的傾向がだんだん強くなってきて、人を避けてひきこもり、人との関わりや人とつながることよりも、独りでいる方がラクで責任がなくていい、という傾向になるのはそのためだろうと考えています。

長くなりましたが、日本人の回避傾向と精神的な未成熟さは非常に関係が深いなあと思いつらつらと書いてみました。

2016年12月2日 カズ姐さん

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